小学校一年生のころ、私は大きい団地アパートに住んでいた。
団地にはたくさんの子供が住んでいて、みんないろいろなお宅を行き来して遊んでいた。
私が自宅で同い年のAちゃんとお絵描きをして遊んでいると、少し年上のお姉さんがやってきて
「りんごを描いてみて。どちらが上手か見てあげる」と言った。
私は多少絵心があったので、自分の方が褒められるだろうと思いながら丁寧にりんごを描いた。
出来上がった絵を見たお姉さんは「Aちゃんの方が上手いね」と言った。
心外に思って、Aちゃんの絵と自分のものを見比べると、Aちゃんのりんごにはテカリが描いてあった。
私のりんごにはなかった。それだけのことで負けたのだった。
悔しくて、悔しくて、その日のことがずっと忘れられなくて、絵の練習に打ち込んだ。
学年が上がって、クラスが変わるごとに教室で一番絵が上手いと言われるために努力した。
しだいに学校中に、絵が描けることが知れ渡り、休み時間になるとしたの学年の子が「絵を描いてほしい」と自由帳や無地の下敷きを持ってきた。私は得意顔でそれに絵を描いた。学校で1番上手いつもりでいた。
井の中の蛙である。
四年生に進級するとU君という肌の白い、知的な雰囲気の男の子と同じクラスになった。
皮肉っぽく笑う顔が印象的だった。
動物や人間を描くのが得意な私と反対に、U君はメカやロボットを描くのがとても上手だった。
戦車やロボットをすらすら描いた。私に機械は描けなかったので、彼には勝てないと思った。
絵のジャンルによって向き不向きがあるのだと学んだある日のこと。
クラスの男子が、こっそり漫画を描いている私の手から自由帳を奪って逃げた。
「返して‼︎」
憤慨して取り返そうとするが、努力もむなしく自由帳は数人の男子の手に渡った。
廊下に逃げられたので鼻息を荒げながら追いかけると、一人の男子がたまたま廊下に居たU君に自由帳を見せた。
「ほら、見ろよ。こいつこんなの描いてるぞ」
誰かに漫画を見られるだけでも恥ずかしいのに、よりによってU君に見られるなんて。
顔から火が出るくらい恥ずかしかった。もう終わりだと絶望していると、U君はすました顔で
「上手いんじゃないの。結構面白いし」
と言った。全く予想していなかった褒め言葉に、嬉しすぎて思わず下を向いて黙りこんだ。
顔がどんどんあつくなる。自由帳を奪った男子にお礼を言いたいくらいだった。
六年生に進級した私は、運動会の横断幕イラストを描く係に任命された。
これは絵を描く全生徒あこがれの大役だ。身に余る光栄にふるえたが、U君にすごいと思ってもらえるような絵を描こうと決意した。
翌日からさっそく大仕事に取り掛かった。自由帳の数十倍大きい模造紙に描くのは、オリジナルキャラクターの〝サンダードラゴン〟。鋭い切れ長の瞳。顔は黄色。電気を帯びた青く長い体の龍が、まるい光の珠を持っている構図だ。バランスを取りながら少しずつ下書きを進めていく。
私は集中した。 絵を描いている時は、サンダードラゴンの住むファンタジー世界に沈み込み、周りの音は何も聞こえなかった。制作にどれくらい掛かったか思い出せないが、大変だったという記憶は一切ない。
運動会当日。私の描いた横断幕が校舎の屋上から披露された。とても誇らしい気持ちだった。
リレーで抜かされても全然平気だった。
U君はあの絵を見て、どう思っただろう。聞きたかったけど恥ずかしくて聞けなかった。
運動会が終わると、卒業まであと少しだった。
私は卒業式の日に、U君に告白するつもりでいた。一年前からそう決めていた。
中学は親の決めた、遠くの学校に通うことになっていたので、もうU君と会えなくなるのだ。
ずっと尊敬していたこと。好きだったことを最後に伝えたかった。
卒業式のあと、親子や先生を交えた謝恩会が開催される。タイミングは卒業式が終わったすぐに決めた。
式がはじまり、在校生の言葉が贈られた。私たち卒業生も言葉を贈った。
卒業の歌を歌い、ぐすんと泣き出した女子を皮切りに、いろんな生徒に涙が伝染した。
校長先生の長い話を聞くのも、これが最後。
式が終わり、教室に戻ると私はU君を探した。 泣いて抱きついてくるクラスメイトたちをかき分けて、あの涼やかな顔の少年を探す。どこにもいない。廊下に出て、走り出す。
理科室にも、図書室にも、音楽室にも、図工室にも、渡り廊下にも、どこにもいなかった。
私の中の白くて美しい少年が、急速に遠ざかっていった。
それに。もうこの校舎ともお別れ。 みんなで泣き、怒り、笑いあった。この場所での暮らしは戻らず、永遠に過去になるのだ。 裏庭のヘチマ畑の前で、いろいろな気持ちが押し寄せてきて、わあわあ泣いた。
教室に戻り、U君の行方を聞くと 「お母さんと帰ったよ」と教えてもらった。
U君はなぜか謝恩会に出席せず帰ってしまったのだ。告白しそびれ、謝恩会に出席した私は心ここに在らずだった。
それからいままでU君とは一度も会っていない。
成人式で会えるかと期待したが、U君はとうとう現れなかった。
誰に聞いても彼の現在を知る者はいない。
私の小学校時代のあこがれ。
肌が白くて、数学が得意で、絵も上手。
たった一度、私の絵をほめてくれた事がうれしくて。
皮肉っぽい笑顔をたたえた少年のことが、今もなつかしく思い出される。
2023年9月26日 鳥野ニーナ
星新一さんの小説を読む機会があり、それがきっかけで八月後半から私も文章をスレッズで書くようになりました。そこで発表したエッセイのひとつを手直ししてアップしました。
読書の習慣がなかった私は、星新一さんのおかげで日常のさまざまなことを
文字で彩ることの楽しさに目覚めました。
小説を貸してくれた友人には心から感謝しています。
つたない文章ですが、これから上達していくと思うので、見守っていただけると幸いです。
初めて読んだ星新一さんの短編集